私が地獄寺ハンターになった日

その他

今思えば私は保育園にいた時から、普通じゃないものへの好奇心が強かったと思います。



ファンタジーな本を読み漁って目に見えない世界の存在が好きになったし、幼少期のお気に入りは漫画で描かれた宇宙の仕組みの本でした。不思議なものとか知らない世界への好奇心がその時から着々と育っていっていたんだと思います。

 

しかし中学・高校とスクールカーストに揉まれ「一般的であること」「普通であること」が生き残る術だと知り、幼い頃持っていた好奇心を封印していました。

 

ところが社会人になったある日、私はそのパンドラの箱を開けてしまうのです。




これがクラブ?摩訶不思議な世界観

 

今は閉店していますが、渋谷にあるパンダっぽい名前のクラブ。

私が初めて一人で行ったクラブです。確か23歳くらい。

そこにひどい時には週3くらいで通っていました。

 

そこは明らかに「いわゆるお洒落なちょっと怖い大人の場所」とは違っていて

もちろん音楽が流れて踊ったりはするのですが、

インドネシア発祥のダンスミュージックFUNKOTだったり、中華歌謡だったり、聞いたことないようなジャンルの音楽ばかり。

かと思えばダサいTシャツコンテストをやっていたり(「逆にイケてる」になってしまうとマイナスポイントという厳しい採点)、演者が秋刀魚でしばきあってたり。

 

 

自由に表現することが許された場で生まれる「何か奇妙な空気」や「奇跡が起きる瞬間」に魅了され、気づいたら「もっと見せてくれ〜!」と心が叫ぶようになっていました。

 

「面白いことに貪欲でいると、さらに面白いことが起きる」



ここからすでに楽しいものを追い求める、という自分の欲求に素直になったのだと思います。



欲求爆発!?クラブ通いの日々



そのクラブが閉店した後もクラブには行き続けています。

今思えばですが私は保育園の頃から音楽が好きで、ピアノを習ったりクラシックにも触れていましたが、特にダンスミュージックに合わせて踊るのが大好きな子供でした。

 

ちなみにその頃一番自分の中でイケてたダンスミュージックは、2 Unlimitedみたいなジュリアナ的テクノ。

 

カンボジアのクラブ

 

自分の表現欲求に素直になるというのは、今までの人生であまりやってこなかった事でそれが音楽に乗って解放されていくのはあまりにも気持ちが良いことでした。

気づけば最前列でずっと踊っていて、最後まで誰とも話さない事も。



そしてそこにはいい音楽を知っているDJがたくさんいて、その人たちを追っているうちに友達もできるようになりました。

アングラな場所ほどいろんな人がいるので、やがてその人たちと話し新しい音楽や思想や価値観を発見したりするのが自分のライフワークになっていきます。

映画をきちんと見始めたのもクラブで出会った友達がきっかけです。




地獄寺の衝撃

 

初めてその存在を知ったのは、最初に書いたパンダっぽい名前のクラブで出会った友人との会話で。

二人で海外旅行を計画していた時でした。

 

「タイにヤバすぎる寺があるから行こうや‼︎」と言う友人の誘いにただならぬ魅力を感じ、速攻で頷きました。むしろ観光は置いといて、地獄寺に行くためにタイにいったようなものです。



結果は想像以上でした。



我らが岡本太郎先生が「芸術は爆発だ!」なんておっしゃっていましたが、この地獄寺は岡本先生のお言葉通り、噴火・爆発しまくってました。

気味の悪さと面白さと真剣さが織り混ざってなんかもう本当によくわからない…



私達パンダクラブ出身の人間にとって、こういった混沌や「なんでそれを作ったんだ!?」という解決しない疑問に打ちのめされる瞬間は、最高に楽しいわけです。ブチアゲです。




詳しい写真はこちら。

度を超えたユニーク!タイの秘境・地獄寺に潜入してみた

止まらないカオスへの愛

 

すっかりその魅力に取り憑かれた私と友人は、

翌年も地獄寺を求めてカンボジアへと旅をします。

あくまで観光はおまけ。メインは地獄寺です。




そして日本の地獄寺的存在の「秘宝館」巡りも始めます。



定番熱海はもちろん、我々が最初に向かったのは埼玉の八潮。

ここはリアルに人の家だっただけに、生活感とも相まってもはや常人では理解できない領域に達していました。

 

八潮秘宝館の一部



その世界観は見る者の気力を全て吸い取ろうとするようなパワーがあり、

帰り道は感動しすぎて頭痛を感じるほど。

 

そして我々二人は「これからも世の地獄寺を探し続けよう!」と語り合ったのでした。




射撃との出会い



私の趣味の一つに「実弾射撃」があります。

誤解を招きたくないのですが、銃規制に反対したり動物をハンティングしているわけではありません。

ただ純粋にスポーツとして楽しんでいるだけです。

 

一番最初に銃に触れたのは大学の卒業旅行でいったグアムで体験射撃をした時。それがなぜ趣味にまでなったかというと、「映画好きをこじらせた」からに他なりません。

 

私はスパイや暗殺者が出てくる映画が大好きで、好きな殺し屋を語らせたら結構長くなるタイプの面倒臭い人間です。




それが大学の頃の体験と結びついて、本格的にガンシューティングをやる事になります。

26歳くらいの時に単身でフィリピンのマニラへ飛び、そこで1日かけてハンドガンの扱い方を元海軍の方に叩き込んでもらいました。



手の皮が丸々剥けるくらいのトレーニングは、とんでもなく爽快で、アドレナリンが出まくって楽しかったんです。それを機に射撃を趣味というようになりました。

 

タイの射撃場



カナダも実弾が撃てるシューティングレンジがいくつかあるので、いってみたいと思っています。




不動産投資を始める

 

26歳の時、私は時間について考えていました。

確かにその時は一般的な社会人レベルの貯金はあったものの、それを全て日本の銀行に預け入れているだけで年間何円かの利息を受け取っていただけ。

 

確かにトレーダーみたいな頭の良さや、分析力はないけれど私の武器はこれから流れていくだろう時間にあると考えました。そしてそれが自分の財産であると。

 

これもまたタイミングですが、

その時ちょうど仕事で高圧的な上司に悩み、鬱の薬を飲みながら胃腸の痛みと過ごしていたような状態だったので、

 

仕事をいつ辞めても大丈夫なようにしたい。

会社に所属しているからこそできることを今のうちにやろう、と思ったのです。

 

会社に所属している一番のメリットは「社会からの信頼」が得られることだと思います。

 

つまりお金を借りやすい立場ということです(会社にもよりますが)

クレジットカードが無職だと作れないのと同じですね。



それが最大限に活かせる投資は何かと考えた結果、不動産に至ったわけです。



私の会社はアパレルでしたが、名前が有名だったので銀行から融資を受けることができました。



今現在はマンションを数部屋持っています。



恥ずかしながら利益でいうと全然なので、投資家さんたちから見たら「どうしたの?」という感じかもしれません。

ですが「時間に投資する」ことはとりあえずできたましたし、税金のシステムについてかなり勉強できたので結果として自己投資にもなりました。

 

無職になった今、この物件たちは生命保険としても機能しています。




やはり「やらないよりやる、やるに勝ることなし」です。




自分の興味に従った結果、価値観をどんどん変えて新しいことに向かっていけるようになった今の自分のことを、昔の自分よりもいくらか気に入っています。



これまでの自分の話もどこかでシェアさせていただいて、変化を楽しんでいただけたら嬉しいです!

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